由来/場所/境内
由来
当神社は、飯能市東部双柳上宿に鎮座する。
社伝によると、弘仁5年(814年)現在の境内地西南に老木の並木があり、その2本の古柳の根本に白狐が遊んでいた。以来当地を双柳と呼ぶようになり、それを聞いた弘法大師が稲荷を勧請し神像を彫刻しこれを祀ったと言う。
『風土記稿』によると、双柳は堀米村の小字であったが、双柳の土地は耕作に適さない為、村内の民家を東に移して、周りを耕作地とした。双柳は1村となり堀米は中山村の小字となった。往事、堀米の鎮守は現在の市内八幡町の八幡神社で会ったと言う。
『明細帳』には、「当社 延文年間(1356~1361) 当村天台宗僧教坊の勧請」と載せている。又『双柳初マリ之事』には、「村鎮守稲荷大神ハ今ノ社地ノ上ノ与兵衛屋敷京順坊屋敷ヲ買イ取リ社ト成ル、野口氏屋敷ヨリ勧請申スト云ウ」とある。野口家は双柳の草分けであり、文久3年(1863年)の伏見稲荷大社からの勧遷状に野口庄五郎の名が見える。
江戸期は、真言宗双柳山秀常寺が別当を努めていたが、明治初めの神仏分離により、同寺の管理を離れ、一時双柳神社と称していた。明治5年に村社となり、明治40年には八坂神社・金比羅社・山王社・愛宕社・山神社・浅間社の合祀を行うが、そのまま社殿は残された。
当神社「保食大神(うけもちのおおかみ)」で、奥殿に稲荷神像を安置する。奥殿は天和元年(1681年)に火災に遭ったことを伝えている。
出典:昭和61年埼玉県神社庁史
境内
境内には八坂神社・中田神社・金比羅様・庚申塚・山車があります。
本殿
拝殿
八坂神社
中田神社
金比羅様
庚申塚
山車
底抜け屋台
双柳の底抜け屋台囃子が飯能市の無形民族文化財に指定されました。
飯能市は双柳稲荷神社氏子に対し、令和6年6月28日(金)に双柳の底抜け屋台囃子を無形民俗文化財に指定しました。
指定先は双柳をはじめ飯能市内13力町に及びました。(双柳から囃子を伝授した浅間も含まれます)
指定対象は屋台の構造物だけではなく屋台を通して展開される全てを指定しています。
(全てとは演奏される音曲をはじめ口上等の所作約束事の全てを含んでいます)
30年前には(既に注目されていた)双柳の底抜け屋台囃子
底抜け屋台を通して演じられる民俗音楽的価値については早くから注目されていました。
今から30年前の平成5年の夏には埼玉県立民俗文化センターが双柳の底抜け屋台囃子の調査に入り、屋台難子の音曲を収録しています。(飯能市内では町内を代表して原町の屋台を調査しています)
埼玉県立民俗文化センター(当時通称民文と言われていました)は、2 0 0 6年には埼玉県立博物館(1971年開館)と統合されました。
この統合により民文は拠点としていた岩槻市加倉から大宮公園内の「埼玉県立歴史と民俗博物館」(統合後に名称改まった)に移りました。
当時(3 0年前)収録された双柳の音曲はこの博物館に現在も禁帯出扱い(きんたいしゅつ:持ち出し禁止)で保存されています。
無形民族文化財に指定されたそのわけとは
飯能市無形民俗文化財「指定書」によると、
「底抜け屋台は江戸中期に江戸市中で生まれ、江戸周辺地域に広まっていったが、現在、底抜け屋台を用いた祭礼行事が残っているのは(旧入間郡内でも)数力所しかなく、加えて一市町村にこれだけ多くの底抜け屋台行事が現存するのは唯一の存在であり、非常に貴重な祭礼行事である。
一(中略)一
のことから当市で行われている底抜け屋台行事は飯能市無形民俗文化財に指定し、長く保存をはかるべきものと考える」
と結んでいます。
改めて双柳の底抜け屋台囃子についてその特徴は
文化財指定調書にあるように底抜け屋台誕生は江戸期江戸市中でありますが、伝来経由地の風俗・習慣・地形(平地傾斜地山間地)集落の大小集落の形成基盤(農村地帯か商業を中心とした町場か)による影響を強く受け進化していくものと思われます。江戸市中から旧入間郡内(現在の埼玉西部地域)を経て双柳に到達するまでには、その形態はほぼ整ったものと思われます。
改めて双柳の底抜け屋台と屋台雛子の特徴を見てみると、先ず音曲の数演奏スタイル(移動時と停止時の演奏)楽器の種類と数、口上に見られる作法と約束、これらが一体となって伝承されこの地に根付いたものと考えられます。
取り分け「口上」については(市の指定調書の中では触れられていませんが)双柳の底抜け屋台囃子を考える際、特徴として軽視出来ない点かと思います。
現在旧入間郡内でも底抜け屋台囃子が消滅した地域が多くある中、門付け芸(後述)として花を掛ける側と花を受ける側との粋なやり取りやぐら内でバチを握る者と、それを見る者との一体感これらが双柳に底抜け屋台雛子が残り続けたと要因の1つになったと言えるかと思います。
底抜け屋台(構造物として)の歴史について
底抜け屋台囃子の歴史を語ることは屋台の構造の歴史を語ることに尽きると考えます。
現在の底抜け屋台は車輪を付けて移動しやすい工夫をされていますが、当初は簡単なやぐらを組んで担いで移動する形でした。
江戸天下祭りが発祥とされる底抜け屋台囃子は関東一円に広まったとされていますが、取り分け旧入間郡内(埼玉西部地域)特有のものとして残っています。(伝来経路は江戸から埼玉南西部へ入間市新久から双柳へ双柳から飯能市内へ近年では双柳から浅間へ)埼玉県立民俗文化センターはこの点に注目したと考えられます。
平成5年に同センターが調査に入った際、学芸員の山本修康氏が残された「研究ノート」の中で底抜け屋台の原型として川越の初期の移動型屋台の絵を紹介しています。(屋台は現在残っていない)
また狭山市柏原の底抜け屋台(4隅を2人ずつ計8人で担いでいる写真)を紹介しています。
ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館に展示してある底抜け屋台は、車輪を付けた底抜け屋台の初期の形として江戸末期から明治20年代まで下福岡で実際に引き回されていたものです。(この地区の囃子は今は消滅しています。車輪と太鼓等の楽器も失われています。)
さて現在使用されている双柳の底抜け屋台は、二代目で昭和30年代初頭に新造されました。(神社だより2403参照)
一代目は明治中期に製作されましたが当初より丸太を輪切りにした様な車輪を付けていたと伝え聞いています。
車輪に輪金をはめていなかったので長い間引き回すうちに車輪が片べり(楕円に変形)したため、引き回す時に屋台が大きく揺れていたと言われています。
前段でも触れましたが「底抜け屋台がどのように進化するか」は「その集落がどのような場所(地形)に形成されているのか」によりその影響を大きく受けることになると考えられます。
双柳のように鎮守の範囲が広い集落(神社だより2 4 0 5の1頁参照)では、底拔け屋台は車輪を付けて移動を楽にした形に必然的に進化したものと思われます。
初代の屋台も二代目の屋台も雨乞い神事の際は野道を引き回して集落の人々の祈雨の願いに対し、その役目を果たしました。(神社だより2 3 01参照)
集落の特徴を反映して作られた屋台の特異な例として(先に触れた)下福岡で使われていた屋台は集落の道路の狭さを考えて小さく作られました。この屋台は(間口145cm奥行き215cm高さ247cm)狭小に作られただけでなく、各家々の門口に入る際屋台の軒が障害になった場合を考盧して屋台の破風もろとも軒を30cm位はね上げる加工が施されています。
双柳の底抜け屋台囃子の音曲について
流し(屋台移動中の演奏曲)
9つのゆったりとした短い曲で構成されていて、その内の2番目 5番目 9番目が同じ旋律で他の6つの独特な旋律が2番目 5番目 9番目の曲の間に入っています。
この6つの曲は独特な旋律ですが、2番目 5番目 9番目の曲に帰結するような雰囲気を持っています。
非常にうまく作曲されています。
1番目の曲で始まり9番目の曲を経て停止時の「シャギリ」の演奏に入るという原則があります。
「流し」と「シャギリ」を総称して「祇園離子」といいます。
「シャギリ」(屋台停止時の演奏曲)
地域によっては言い方が異なります。(シャギリ:にぎやかな雰囲気を表す言葉の1つ)門付け(詳細は後述)の際演奏する賑やかな曲目です。
笛ではテンポの速い難曲の部類に入ります。双柳では繰り返し連続して演奏することはあまりありませんが時折興に乗ると笛を交代しながら連続の演奏になることもあります。
基本に従って丁寧に笛を吹くとまとまった長い曲になりますが、途中を抜いて吹いてもあまり不自然な感じはしません。
長くも出来るし短くも出来るよう上手に作曲されています。
「口上」(こうじよう:挨拶の一種でこの場合はご披露のための挨拶)
「門付け」(かどづけ:家の門口や玄関先に屋台を着け一曲を奏すること)の際御花代等が掛けられた時以下のような「口上」を述べた後シャギリの演奏が始まります。 (以下口上)
トザイ トーザイ ゴトウショ〇〇サマヨリヤグラウチノ ワカイシュウ オンタル イッカ クダサレ マズハ ハナノ オンレイ ハナノ オンレイ ソノタメ コウジョウ (これを漢字仮名交じり文に直すと判りやすくなります)
東西東西(「お静かに」を意味するかけ声) ご当所(当地区内を表す言葉)〇〇様より やぐら内(屋台内)の 若い衆へと 御樽一荷(直訳すると酒樽を想像しますがこの場合心付けを樽料とも言い荷は数える単位で総じて金一封) くだされ(頂き) 先ずは 花(御花代金を含めた全て)の御礼 花の御礼 そのため(の)口上
今後の 底抜け屋台囃子の役割と氏子中の役割
さてこの度無形民俗文化財に指定された双柳の底抜け屋台離子を概観すると以上のようになります。
双柳の地に底抜け屋台蠟子が伝来してからこれまで門付けを目的に構成されたと思われている屋台磯子は、本来神輿渡御(63年前まで担いでの神輿渡御が行われていた)に付随する屋台囃子と考えるならば、門付けの他に祭礼囃子として神輿を離す役割があったものと思われます。
この度の無形文化財指定を機に底抜け屋台を通して展開される全てに対し、改めて光を当てると共に氏子中で協力して保存継承に努めるという重要な役割を担うことになります。
保存・継承に向けて御協力の御願い
古来より神社の祭礼を中心にして一年間の生活を組み立ててきたこの地の人々は夏の祭礼には家族そろって準備をして祭礼の日を迎える。
そして集落の全員でこの祭りをやり遂げる。小さな集落の大きな楽しみがここにありました。
この祭りを終えると一年の後半に向かって人々の生活がまた始まります。
無形文化財に指定されたということはこの地(双柳)に生活の拠点を置く人々に対して保存継承に努めていただきたいという公式なメッセージを発せられたということを意味しています。
つきましては氏子の皆様におかれましても祭禮文化の維持発展のために、これからも尚一層のご理解とご支援をお願い申し上げます。